歌人吉野秀雄は神州清潔の民だった。次男健次がスエーデンの留学生リーナ・ヤコブセンと一夜を共にした時、秀雄は夷狄の女と寝た息子を激しく罵った。健次はそんな父親に絶望、作家山口瞳宅に身を寄せた。山口は戦火の余じん消えやらぬ昭和二一年、鎌倉アカデミアで秀雄に学んだ。風変りな先生だったが、万葉をうたう時、へべれけに酔って放歌高吟する時、山口は我が詩才乏しと自らをせめた。が、秀雄は山口の才能に注目し、自虐癖のある彼をやわらかい心で包んだ。山口は吉野先生は頑固な人でないと強調した。一方、息子に怒りをぶつけた秀雄は奈良へ作歌の旅に出た。長男浩一が長い療養生活から戻ったのはそんな折りだった。浩一の全快を祝して姉弟が集ったが、しかしこの席に呼ばなかったかわり者の父に話題が移っていった。秀雄は先妻を亡くし、家政婦だったとみ子と結婚した。“これの世に二人の妻と婚いつれどふたりは我にひとるなるのみ"新しい妻は夫と姉弟三人のため献身した。さて、子供たちが作った和解のチャンスを秀雄はスッポかし岐阜県中津川へたった。冬が来て、吉野家に不幸が続いた。浩一の恋人麻里の自殺未遂、続く、浩一の発狂。そして秀雄も病の床に就いた。病あつしの報に山口瞳、夏子夫妻他鎌倉アカデミアの卒業生が見舞い励ました。秀雄は、余命短かいと言いながら、昔通りの大声で懐しい歌を唱いだした。やがて、健次と和解した秀雄は絶唱ともいうべき歌“彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊ぜみの声"を朗々と詠みあげた。貧困と病苦の生涯を送った吉野秀雄の墓は鎌倉瑞泉寺にある。秋の陽を受けて立つ健次の耳にあの朗々たる歌、不滅の歌がよぎった。
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