池田さやは甲府市外で葡萄園を経営している。両親を失って以来、祖父と弟・稔、妹・みよたちの母がわりで生きてきた。稔は身体障害者だった。生きる自信を与えたいと、さやは彼に有名な音楽教室でバイオリンを習わせた。音楽家を志した父の遺志もあった。点字楽譜を作ったりした彼女の努力はむくわれ、稔は腕を上げていった。さやには二人の理解者がいた。市役所の観光課につとめる実直な青年・小倉と、葡萄酒社の若主人野口である。--ある日、稔はみよと兄妹げんかをした。みよが亡父のバイオリンにさわったからだ。彼女が野口にバイオリンを習い始めたのを知らなかった。さやは配水場の中で無心に弓を動かす妹を見つけた。みよはさやの愛情が兄だけに注がれるのが淋しかったのだ。さやは稔に気をかねて、みよのバイオリンをやめさせようとした。が、稔はぼくと競争でやろうと、喜んで合奏したのだ。--オーストリアから一枚の絵はがきが届いた。稔のペンフレンドの、ウィーン少年合唱団のヨハン君が来日すると報せてきたのだ。が、その直後、稔は高熱におそわれ、急性白血病と診断された。生命は時間の問題だった。--一年前に、少年合唱団が来日したとき、稔はその合唱に感動し、小倉を通じてヨハン君とペンフレンドになった。さやは弟のために合唱団を羽田に出迎えた。弟が生きているうちに、もう一度、合唱をきかしてやりたかった。が、スケージュールはつまってい、甲府公演を早めるわけにはいかなかった。日取りの早い静岡公演を甲府とさしかえるほか、稔の生きてるうち間に合う手段はないのだ。この不可能に近いことを、さやは実現させようとした。合唱団も放送局も協力した。団員の輸送には、両県の交通公社が一役買った。甲府公演が実現し、合唱団は病床の稔のために歌った。稔は自分がバイオリン用に作曲した“この道”を弾いてきかせたかったと残念がった。そのまま、彼は息をひきとった。--公会堂で、合唱団は稔の作曲をみよの伴奏で合唱したいと申し出た。演奏するみよの姿が、舞台の袖でみつめるさやには、涙のゆえか、どうしても死んだ弟に見えてしかたがなかった。
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