--昭和九年--そのころは自由を求め若い学生達が新しい思想にあこがれているときだった。そして名門の家に育った眞知子もまた結婚を逃がれて大学の社会学聴講生として、男子に交って勉学していた。眞知子の母も姉も有閑夫人として自分流の人世観によって、一日も早く眞知子を結婚させることに専心する通俗的な女だった。眞知子がある時セッツルメントに働く学友米子を訪ずれて、そこでごうまんな青白い青年、関に始めて紹介された。関がいま学生の思想運動に関連して保釈中の身であることを知った眞知子は、なぜか関のことが気がかりになった。偶然名画展で関に再会した時、眞知子がルパアシュは素晴しい生命力にあふれ、よう折した女性だったというのに対して、自分の貧弱な生活に較べて余計感心するのか、と辛らつな言葉を平然とはく関に、今まで知らなかった男を見た。その間も姉の結婚強制はやまず「大して気に入らぬ着物でも季節の代りがなければ着て見たってよい」というのに「あとで脱ぐ位なら始めから着ない方が利口です」と眞知子の主張はあくまで徹底していた。突然関から、ぼくのために貴女が縁談に耳を傾けないとお姉さんの忠告をうけたことを聞かされた眞知子は、いままでの緊張がもろくも崩れ泣き伏した。--いまの生活から救ってくれるのは関以外にはない--眞知子が関との結婚を決心した時、米子が訪ずれてきた。その米子の口から聞いたのは意外にも米子の腹の子の父が関であるという信じられぬ事実だった。眞知子が信頼し、強い人生を歩んでいるとばかり思っている男こそ、本能のままに行動する、道徳も知らぬ恥知らずだったのだ。そして眞知子の憤りに対してさえ、その男は冷然と米子の個人的な苦しみは社会飢餓にも、失業、ストライキにも何の関係もないとうそぶいている。中核を失った眞知子の足は、いつか信州のスキー場であった河井の研究所に向けられていた。いまは研究所一つが自分の所有物となったかつての富豪の河井のもとで、始めて眞知子は己の安定した人生を捕えることが出来たのだ。
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