安政五年(一八五八)、徳川幕府は日米通商条約を結び、横浜開港を決めた。上州郷士出身の重兵衛は、商人の道を歩みながら佐久間象山の門に学び、火薬、砲術、医学、語学等の学問に秀いで、その秀才ぶりは同門の旗本・勝海舟も一目置くほどであった。世界を相手に貿易することを目標とする重兵衛は、日本橋の店をたたんで横浜進出を決意する。幸い勝の取り計らいで、外国奉行・岩瀬肥後守が便宜を図り、広大な土地を借り受けることが出来た。重兵衛はここに外国商館に引けを取らない豪壮な館を建築中であった。そんなある日、重兵衛はやはり横浜に店を移して来た品川遊郭『春月楼』の女将・おらんに妻のおそのを店に預けて客商売のイロハを仕込んでほしいと頼む。それはやがて完成する館を世界の貿易商の社交場にし、おそのを華やかに会場を取り仕切る女主人にしようという構想からだった。そして館は完成し、銅瓦がまぶしい豪華な二階建てのその建物は早くも『銅御殿』という呼び名で親しまれた。だがそんな時、岩瀬肥後守が封建的な幕府の政策を批判したために外国の奉行職を剥奪、家禄没収の処分を受ける。さらに重兵衛も御禁制の銅瓦で屋根を茸いたことによって突然奉行所に呼び出され、“大獄”は益々猛威をふるい、世情の不安も増大した。そんな折、『中居屋』の表でイギリス水兵三名の斬殺事件が起こる。このことは国際協定により厳しく処理するとカピタンは激怒したが、死体を丁重にあつかった重兵衛とは友情の誼が結ばれた。安政六年12月、勝が遣米使節護衛艦々長としてアメリカへ渡ることになった。再会を喜ぶ重兵衛は豪胆にも三千両の金を寄贈し、立派な商船を作り、海の向こうでのびのびと貿易してみるつもりだという将来の夢を勝に語る。だが、幕府の横浜への弾圧は益々厳しくなり、商人たちが大打撃を受ける日は目前に迫っていた。やがて起こる万延元年三月三日、桜田門外の井伊大老襲撃事件。水戸烈士たちに陰から支援を送る決意に出たのも、開国日本と自由貿易を信じ続けた中居屋重兵衛の天命による行動だった。...
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